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武田時昌 京都大学名誉教授 関西医療大学客員教授

 今世紀に入って、先端医療の進化は目覚ましく、ゲノム解析、iPS細胞等による再生医療、ゲノム創薬の技術革新がなされ、遺伝子治療、オーダメイド医療という従来にない新奇な療法も唱えられている。ところが、新型コロナウイルス(COVID‑19)がもたらした地球規模のパンデミックは、向かうところ敵なしに思えた現代医薬学にも弱点があることを露呈し、予測不能の事態に陥って感染症対策に右往左往する醜態を曝け出した。
「死に至る病」を完全に克服できるという近現代の医学神話は、もろくも崩れ去ってしまったのである。
現在の医療・衛生や、健康・介護においても、取り組むべき問題がさまざまに顕在化してきており、構造的な変革が迫られている。何をどう変えればいいのか、そしてどこに向かうべきなのか。自然への畏敬を呼び覚まし、悪疫流行の速やかな終息を願いながら、じっくり考えるべきである。

 少子高齢化が進む現状を鑑みれば、長寿健康社会の実現が近々の課題として浮上してくる。医療の世界では、アンチエイジングや不妊治療に新たな試みがなされており、その周辺で健康産業も盛行する。しかしながら、長寿のサイエンスが確立しているわけではない。
その要因を探れば、老化のメカニズムが十分に解明できていないうえに、健康、長寿をめぐる総合的な学問研究の場がどこにも見出せないことが体制的な欠陥として指摘される。

 健康という概念は、実に多義的なものである。医薬による〝力〟だけではなく、そこには哲学、文学から芸術、趣味に至るまで様々な文化要素が絡まっている。したがって、健康を維持しながら充実した社会生活を送り、幸福な人生を全うするには、多元的、複眼的なアプローチが必要な時代に入ったのである。

 そのような視座において眺めれば、東アジア世界の伝統医学には注目すべき多様性がある。すなわち、鍼術、灸法、按摩、マッサージ、整骨(正骨、骨接ぎ)などの諸技法や、現在では方剤調合による投薬が中心であるが、長生術、養生法や丹薬、呪術的な療法も包含される。唐代以前の古医書を網羅した医学百科全書である『医心方』では、その医療体系の全体像が明示され、薬方とともに化粧品や美容法、「気」を巡らす身体技法、辟穀(断食)など、身体を癒やす技法が多種多様に記載されている。それを通覧すれば、きわめて早期から健康の維持、増進や長寿の達成をめぐって多角的なアプローチがなされてきたことが理解できる。

 中世から近世になると、道教、仏教の宗教的な修養法と絡み合い、年中行事や祭礼に組み込まれた招福徐霊の呪いや民間信仰と相互連環することで、医療体系とその周辺に特有の文化複合体が構築される。それがゆえに、多様性のある医療文化を創出させ、庶民生活に深く根ざして思想的、社会的に大きな作用力を発揮してきた。その多元的、包括的な枠組みは、難病治療に特化し、ハイテク手術や新薬開発に邁進する現代医薬学の排他的で狭隘な研究体制と正反対のベクトルを有している。その意味では、大いに学ぶべき古代人の叡智がそこに潜んでいる。

 東アジア世界の伝統医術は、近代のある時点までは先進的で、高い水準を誇っていた。中国、韓国においては中医学、韓医学として近代化され、欧米型の医薬学と並立した。ところが、我が国においては明治政府の極端な欧化政策によって医薬の世界から放逐され、近世と近代に大きな断層を生じてしまっている。その弊害として、医道の技術的伝統の喪失という大きな後遺症に今なお悩まされている。江戸後期には、漢方、和方と蘭方、洋方とを折衷させたハイブリッドな医療が醸成していただけに、口惜しい限りである。

 そして、新たなブレイクスルーには、遡及的な考察は欠かせない。革新と復古は、相容れないものではなく、相補的な関係にあるのだ。そのことを正しく認識した先に、ここに新設された東洋医学研究センターのミッションが、あらたな形で立ち現れてくることを期待したい。