2022年09月02日
「博士」以前の私(樫葉均)
基礎医学ユニット・樫葉均
1980年代後半、私は大阪大学医学部の第2解剖学および高次研生理学の教室に出入りするようになっていた。前者では免疫組織化学法とin situ ハイブリダイゼーション法を、後者では電気生理学的手法を習得しようと、時には重い足取りで肥後橋駅から阪大中之島キャンパスに向かっていた。特に生理学教室の勉強会では強い刺激を受けた。その頃、阪大医学部では日本ではじめて“医学部修士”コースを設置し、東大や京大をはじめ全国から理系の優秀な学生を集め、医学研究を加速させる試みをスタートさせたところだった。一方学生は、次世代の医学界のエースを目指しこのコースに集結していたのである。彼らのポテンシャルは高く、“こいつらが日本の医学サイエンスを動かしていくのか?”と感じることもあった。そんな勉強会の中で兎にも角にも“ニューロン”の勉強を始めた。
先ず実験に着手したのは、「カルシトニン遺伝子関連ペプチド:calcitonin gene-related peptide (CGRP)」であった。1982年、骨吸収を抑制するカルシトニンをコードする遺伝子より異なるスプライシングによりCGRPが産生され、カルシトニンが甲状腺で産生されるのに対しCGRPは神経系で合成されていることがNatureに発表され(1)、注目を浴びていた。更にこの論文には、“このタンパクはコンピュータ解析により発見された”とあり、“コンピュータ解析で未知の物質が見つかるのか?”と驚かされた。遺伝子工学の知識などほとんど無かった私にとっては目から鱗である。そのような論文が発表され、サイエンスを動かす人材が集まり、“私はこの世界でサバイバル出来るのか?”、自尊心が押しつぶされそうになっていたこともあり中之島キャンパスへの足取りは重かったのである。しばらくして、“私のつたない研究手法で何が出来るか”と考えた時、このCGRPは適当なテーマだったということだ。
その後、免疫組織化学法を駆使しながら実験を進めるものの、たいした成果は上がらなかった。それでも先生方の指導を受けながら二つ、三つの論文を書くことが出来た。内容的には低レベルなものの、国際誌に掲載された“Hitoshi KASHIBA”の活字を見ると幾ばくかの高揚感を感じることもあったが・・・。そんななか、不思議な痛み研究ツールと出会った。カプサイシンである。この物質は唐辛子の辛み成分で“バニロイド基”を有するのが特徴だ。この“バニロイド基”はとにかく“辛い”のである。女性週刊誌では、“脂肪の代謝を上げる効果があり美容と痩身に最適“などのフレーズが踊っていた。このカプサイシンを新生仔期のラットに投与しておくと、無髄求心性神経の一部が障害を受け脱落することが知られていた(2、図も参照)。細胞内のCaイオン濃度が上昇し死滅するらしいことが示唆されていたが詳細なメカニズムは不明だった。
私もこのカプサイシン処置ラットを作製し実験に使用していたが、その時、不思議に思っていたことがあった。この処置ラットを開腹したとき例外なく膀胱が尿でパンパンにはち切れんばかりに膨らんでいたのである。このことはどこの雑誌にも報告されていなかった。随時、尿漏れが生じているようでラットの排泄器周辺は黄ばんで汚れていた。無髄の求心性神経と膨張した膀胱、気にはなったが目先の成果(CGRP含有ニューロンに対するカプサイシンの影響)に囚われ、そのうち徐々にフェードアウトするようにこのことは脳裏から薄れていった。そしてこのカプサイシンと膀胱との関係は、約二十数年後に明らかになったのである。しかも昨年度(2021年)、ノーベル医学生理学賞を受賞したDavid Juliusらの一連の研究によってである(3)。”あ、そうだったのか!“ 軽い衝撃と同時に自分のセンスの無さを思い知らされた。”想像するぐらいは熊取の大学人にだって出来ていただろうに・・・“ このカプサイシン物語の続きは本学の大学院・生体情報学の授業で後述することにする。
1. S.G. Amara et al, Alternative RNA processing in calcitonin gene expression generates mRNAs encoding different polypeptide products. Nature 298, pages240–244 (1982)
2. Y.Uchida et al, Electroacupuncture induces the expression of Fos in rat dorsal horn via capsaicin-insensitive afferents. Brain Research 978, pages 136-140 (2003)
3. M.J. Caterina et al, The capsaicin receptor: a heat-activated ion channel in the pain pathway. Nature 389, pages 816-24 (1997)