2024年02月16日
生物学的精神医学研究の過ぎ越し方と今 (郭 哲次)
臨床医学ユニットの郭(精神医学)です。私は1980年代から主に脳波を用いて精神科臨床領域で研究を細々と始めました。当時の大学はまだ学生運動・東大闘争の名残が色濃く、研究ボイコット、学位ボイコットと叫び、毎週のように医局に入ってくる公的病院の諸先輩先生方が研究批判活動している時代でした。「お前らはなぜ弱い患者さんを対象にして研究などをするのだ? 自己批判しろ」と毎回迫られ、教授もつるし上げられた時代でした。このため、精神医学の教室や医局は長期にわたり機能不全に陥っていました。学生運動は特に精神科領域が火種となったため、当時の精神医学の学会はゲバ騒ぎにて開催中止を余儀なくされ、また、その後も学会場の地下に機動隊が待機して学会が行われ、学会発表も当日までどうなるかと思いながら発表したものでした。1960年安保闘争を契機に始まった学生運動は全国大学医学部の精神科医局を巻き込んで2000年台初頭までその尾を引いた状態で、以後も学会総会が難航する場面も多々ありました。昨年11月に、第45回生物学的精神医学会(JSBP)大会が沖縄で執り行われましたが本当に穏やかな気候の中、平和裡に行われ、当時とは隔世の感があります。私が研究を始めた頃は東大、阪大、滋賀医大、京都府立医大などの精神科や心理の先生方と泊まり込みで夜を徹して行う小さな研究会に参加していました。当時は事象関連電位(Event Related Potential :ERP)が華やかになってきた時代でした。私は、統合失調症に関する研究を、事象関連電位の中で、主にMRCP(運動関連脳電位Movement Related Cortical Potential=readiness potential)を用いて開始しました。これは、統合失調症では、精神的な症状以外に欧米の研究ではmicro-motor disturbanceが指摘されていたことと、精神活動は目に見えませんが、行動・運動は客観的に観察可能・可視化可能な対象だからです。こうした研究を行うこと自体が、また私達の患者さんを診察し見立ての実践にも役に立ちました。臨床家は臨床での診療や治療行為による視点だけでなく、研究をすることによる視点が、車の両輪のように大事です。患者さんを診ることから研究を考える、また研究をすることから患者さんの診療を考えるということが両者の中身(質)を高めていくことになるわけです。とりわけ臨床医学研究は何のためにするのか?どのように行うのか?様々な意見がありますが、患者の病気の洞察する深さをさらに深化する役割があります。昔、闘争家の先輩方に、医師・研究者として自己批判しろと言われましたが、今となっては、そのおかげで、特に研究倫理や研究姿勢に関し、患者さんの立場に立ち、その痛みについてよく考え、研究とは何かを少しは学習することができたように思います。
身体医学の研究領域は、目覚ましい発展を遂げています。しかし、精神医学の生物学的研究はどの領域にもまして長い歴史があるにもかかわらず、この領域は、従来の研究手法では、ブレイクスルーすべき最後の砦として残り、まさに伏魔殿です。人間の意識とは何か? 意識自体がどこから来るのか? これは哲学的な問題でもありますが、漸近線のように近づいてはいても、未だ突破できない領域です。
後期高齢者に近づく今、原点に立ち返り、生物学的うつ病と診断できる“本当の症状(操作診断基準にあるうつ病の特異症状ではなく)”は何か、生物学的うつ病の診断に必須所見は何かということを、実際の自分の患者さんの病前の経過、発病後の経過につき、時間軸(縦断的な変化)に焦点を当てて俯瞰し、検討しています。